戦中の「マタイ受難曲」―成城学園・ヒューマニズムの光彩/柴田巌

戦中の「マタイ受難曲」―成城学園・ヒューマニズムの光彩

数年前にNHK交響楽団の前身である新交響楽団(新響)設立以来のN響演奏会記録がNHK交響楽団のサイトで公開されました。創設間もない時期にこんな作品を取り上げられていたんだ、こんなゲスト指揮者や音楽家が新響や日本交響楽団(日響)やN響と共演していたんだー!と興味深い内容が満載の貴重な資料です。その中で些か驚愕を覚えた演奏会がこれ。
1943/11/17(水)18:00
1943/11/18(木)18:00
日比谷公会堂
#250
バッハ マタイ受難曲 BWV244
日本交響楽団
ジョセフ・ローゼンストック
三宅春恵(sop.)
千葉静子(alt.)
薗田誠一(ten.)
伊藤武雄(br.)
矢田部勁吉(bs.)
成城合唱団(chor.)
1941年~1950年
1943年(昭和18年)、その前年にはミッドウエー海戦に敗れすでに敗色濃厚な戦争真っただ中。この演奏会の約一か月前の10月21日には第一回出陣学徒壮行会第1回が大雨の明治神宮外苑競技場では行われたそんな時期です。日本中が戦争一色だった昭和18年にマタイ受難曲全曲の日本初演が一体何故出来たのか(マタイ受難曲抜粋は1940年4/10に取り上げられています)?そんな疑問を持ち続けていた中で見つけた一冊がこの『戦中の「マタイ受難曲」―成城学園・ヒューマニズムの光彩』。読み進めていてまず感じたのは「これは実に大変な一冊に巡り合ってしまったなぁ」と。演奏会の準備段階や練習の期間中でもお構いなしに男性の楽団員や合唱団員たちが次々と赤紙招集されていく。既に戦地に赴いた楽団員や合唱団員たちも大勢いて、戦死した同僚もいる。また多くの戦地の同僚は一体今どこにいるのか、生きているのか戦死してるかなど、内地に残って練習しているメンバーは殆どわからない。そんな中でマタイ受難曲の練習は続いていく。戦地に赴く前にマタイ受難曲が聴ける事の喜びを語る方の言葉が心に突き刺さる。「来月はマタイ受難曲の公演の由、小生本年十二月入営することになり、恐らくは最後の音楽会になろうと思って居ます。バッハの傑作で聞き終えることが出来れば、何も思い残すことがありません。熱演を期待しています。」(朽木茂一)
平和な時代に住む我々にとっては到底想像できない環境下で昭和18年の秋にマタイ受難曲が演奏されました。記録が残っていないようなので、正確な情報か不明だそうですが、マタイ受難曲の演奏会は恐らくラジオ生中継されたようで、はるか南方の戦地で日本語訳で歌われたマタイ受難曲を聴いた日本兵がいるかもしれません。

明治神宮での学徒出陣の模様はニュースで断片的に流れますが、実は当時映画化されていました。制作したのは大本営でもなく陸軍省でもなく、なんと・・・文部省。もうこんな時代に決して逆戻りはしてはいけない。

N響とマタイ受難曲の演奏会で別な点で興味深いのは、戦後になっても僅か4回しかマタイ受難曲は演奏されていません。それも昭和25年(占領下の頃)と昭和28年(占領から解かれた翌年)だけ。
1950年6/23,24
日比谷公会堂
山田和男(一雄)

1953年2/29,20
日比谷公会堂
クルト・ウェス

戦時下のマタイ受難曲を通じて当時の日本の音楽家や観衆がどのように音楽に向かい合っていたを知る上で極めて興味深い一冊ですので、是非ご一読をお薦めします。

hiro
クラオタ歴30数年。 香港在住。 クラシック音楽や映画などについて、日本語紙に時々寄稿しています。