大阪音大と関西音楽界
関西初の私立音楽学校の大阪音楽大学創設100年のページ、これは素晴らしいです!
大正~昭和初期にこんな音楽家が関西に来ていたのか!とか、戦争のキナ臭い匂いが音大の教育にも公演内容にも反映されているとか、桐朋学園短大一年生だった小澤征爾の新聞記事(昭和30年)とか、日本初の国際音楽祭である大阪国際フェスティバルの歩みとか、とにかく貴重な資料が満載のページです。
ケッサクなのは、昭和11、12年頃当時の大阪音楽学校で教えていた学生の朝比奈隆さん評。「早口で講義されるので時々ノートを書き損ふ。生徒を見くびつて居られないのが先生の美点です」
戦前の関西の大きな音楽イベントは大阪では1918年(大正7年)にオープンした中之島公会堂、神戸では1913年(大正2年)にオープンした聚楽館でした(日比谷公会堂の開館は1929年)。
関西で主に音楽を聴いてきたぼくには関西の過去の様々な音楽シーンが思い出されて、見ていてたまらないです。
レスリー・チャン追悼
Leslie Cheung(張國榮)
12/Sep. 1956-1/Apr. 2003
『レスリーがマンダリン・オリエンタル・ホテルで飛び降り自殺した!』ってあの日の晩、外で飯を食っていたら家内から電話があった。帰宅途上にマンダリンに行ったら、ものすごい数の花と突然の死が受け入れられない多くの市民でごったがえしてた。
あの日から14年。毎年4/1はマンダリンに多くの花が手向けられる。そして今夜もそうだった。
レスリーが亡くなってからほどなくしてマンダリン・オリエンタル最上階にあるバーに行った。当時ぼくがよく一人で、そして友人と共にこの店によく行っていた。顔見知りのそこのスタッフにレスリー・チャンの事を訊いてみたら、彼女は何度もレスリーのためにサーブしていたらしい。彼女は当時こんな事をぼくに語ってくれた。
『レスリーは本当に孤独でした。誰も手にすることが出来ないようなお金も名声を得ましたが、彼には張國榮としての居場所がなかったのです。バーの飲み物や、バーの隣にあるマンワー(最高級の広東料理レストラン)の食事を、彼が予約したマンダリンの部屋に私は何度も持っていきました。部屋にいるのは大抵彼一人でした。バーに、そしてマンワーに来たもらいたかったのですが、レスリー・チャンだ!と周りのお客さんが彼をほっておかなかったのです。残念ながらそれはマンダリン・オリエンタルの方針ではありません。ゲストであるレスリー・チャンはマンドリンとしてはミスター・チャン(張先生)なのです。たとえマーガレット・サッチャー首相がゲストであっても、マンダリン・オリエンタルにとしてはミセス・マーガレット、としてサーブします。レスリーはどうやらマンダリンの方針が気に入っていただいたようで、本当に何度もマンダリンをご利用されていました。報道ではレスリーは恋の事で悩んでいたようですがそれは私にはわかりません。彼があまり繊細すぎる、そんなことで死を選ぶなんて、という人もいるでしょう。張國榮ではなくレスリー・チャンという名前をあまりに自分で背負いすぎすぎだ、と思う人もいるでしょう。しかし”私たちはレスリー・チャンじゃないのです”。』
改装前のマンダリン・オリエンタルの上階にはかつてベランダがありました。ここから見るヴィクトリア湾、そして花火は絶景でした。そんなベランダからレスリーは最期に何を見、そこから身を投げたのでしょうか・・・。
自殺の直前、様々な人に宛てたといわれるレスリーの遺書。
『NINAGAWA・マクベス』香港公演ニュース、香港ポストに掲載
『NINAGAWA・マクベス』香港公演ニュース、香港ポストに掲載
6月に香港公演『NINAGAWA・マクベス』