”単独インタビュー” 黒沢清 『クリーピー 偽りの隣人』

『クリーピー 偽りの隣人』公式サイト
@creepy_2016

映画『クリーピー 偽りの隣人』の原作は前川裕氏が発表された小説『クリーピー』ですが、日本で起きた様々な陰惨な事件を想起させられる部分を感じました。映画制作にあたって、これらの事件に何か触発された部分、もしくはこれらの事件を想起するように映画を作られた、ということはありますでしょうか?
-この作品を最初プロデューサーに紹介されて、読んだところからスタートしておりますが、小説を一読してこれはいくつかの人を監禁するなどの実際にあった事件を元にしているな、ということはすぐにわかりました。小説の大体の筋書きは原作から頂いていますが、小説を読む前から僕も調べていましたから、キャラクターを作る際に特に悪者などはある程度ですけどもそういった部分は参考にさせて頂きました。ただ出来た映画は小説ともとても違いますし、実在の事件を取り入れた部分もあるのですが、最終的にはある種のフィクションとして、そしてもっと言うと一種のファンタジーとして、怖がりながらも楽しんでいただければいいな思って作りました。

フィクションを超えてしまうような残忍なそして陰湿な事件がしばしば起こりますが、フィクションの映画の作り手として何かお聞かせ頂きたく思います。
-現実には想像を超えるような事件が起きているな、ということは僕も感じます。今回もヒントにしたり参考にした部分はありますが、それをそのまま事実に基づいて再現した、という事は全然ないので、しかしそのような事件と僕が作る映画とは一応切り離しています。都合のいいことを言いますと、フィクションって結構もうなんでもありと言いますか、こんな事思いついたけど、本当にあると思えないな、というようなどんなことを思いついたって、どんな突飛な事でも、一回フィクションとして作り上げてしまえば、リアリティーを持つかもしれない、不謹慎かもしれませんけど、そういう何かとても可能性が広がった感じがありますね。現実はここまで(陰惨な事件が)あるのだとすると、たとえ何を思いついても、フィクションとしてそこにリアリティーを感じてくれるかもしれないなと思います。

万が一陰惨な事件を起こした犯人が「黒沢清監督の映画を観て事件を起こした」と言われたりしたどうしよう、となどと思われたことはありませんでしたか?
-幸いこのようなことは起こっていないので、大丈夫だと思いますけど、考えると怖いですよね。いろんな部分があるので一概に分析はできませんが、よく言われていますけども、同じ映画を観た人は皆そうなる(事件を起こす)わけではないですし。その点ホラー映画とかは偏見を持たれていて、今でも凶悪犯人の部屋には残酷なホラー映画がたくさん並んでいた、みたいなことがニュースになることがありますが、そうだったら僕のDVDの棚なんか凶悪犯の典型だよな、と思いますが・・・。観ている人がすべてそうなるという事はまぁ無い、観ているのが理由でそうなるという事は無い、とそう信じています。ただ元々そういう傾向にある人が好んでそういう映画を観てしまうことはあるかもしれませんね。だから「どうしてそんなことをしたんだ?」と聞かれ「映画でやっていたから」、まぁわかりやすい理由を口にすることはあるかもしれませんね。でも観たことが直接の原因という事はないと思います、と信じています。しかし現実はなんでもありですからわかりませんけども。

簡易に高画質な撮影できるデジタル機材の普及でドキュメンタリー映画の人気が高まっていると感じられますが、フィクション映画の取り手としてドキュメンタリー映画についてお話ください。
-僕はドキュメンタリー映画はよく観てはいますが作ったことがありませんが、出来たドキュメンタリー映画から受ける観客の印象は案外フィクション映画とあまり大きな差はないのではないかな、と思いつつ、作られ方は全然違うのであろうと思います。ドキュメンタリー映画は興味深いのですが何かこう遠いところにある感じがして、あまりちゃんとしたコメントはできないのですが、まず観る立場は一言で言いますと、ドキュメンタリー映画ってまだ楽しんで観ちゃいけない、まぁそんな事はないのでしょうけど、何か襟を正してそこから社会の何かとか人間性の何かなどの情報を得るとか、教育されるためになるものとして、観なきゃいけないのかな、という先入観が僕の中にはまだありますね。フィクション映画ですと、楽しんで大笑いしてもいいし、泣いてもいいし、「ちょっと仕事で疲れたからちょっと映画でも観るか」って時にホントお楽しみで観に行くそういう時に、あんまりドキュメンタリー映画観に行く人は今いるのかな?。ストレス解消のために一本ドキュメンタリー映画観るか!、ってあんまりならないのでは?何か非常にまじめなインテリジェンスの高いものとして、ドキュメンタリー映画ってあるような気が(違うかもしれませんけど)します。その点フィクションは所詮はエンターテイメントであり、もっというと芸術としては三流のいかがわしいものとして見せ物みたいなものとして存在している分、自由自在にあまり世間の常識や一般教養のようなものにとらわれず、観れるっていう気楽さがあるのかな、と観る側として思います。作る立場から言うと、ドキュメンタリー映画を作ったことがないので断定はできませんが、たぶん全く逆を向いているよな気がします。どういいうことかと言うと、僕はフィクションを作っているので、もともとがウソをついている、という引け目というか負い目があるので、ウソなんだけどなんとかして本当に近づけたい、もともとがあり得ない物語である分、作っていく細かい過程では全部ウソがないか、これは本当に見えるか、どうやったら本当に見えるか、みんなが本当に見えるか、ということ最新の注意を払い、あらゆる努力をしていくわけですが、推測ですけどもどうもドキュメンタリー映画を作っている人は真逆で、発想と撮った素材は全部本物である分、どうやってウソをついてやろうか、ここからどういうフィクションを導けるか、どこまでそこから飛躍したことを語れるのか、ってことを試行錯誤し、そこに向けて完成した映像表現なのかな、という気がします。極論の偏見、冗談めかして言うと、フィクションを作っている人は実は正直者で、ドキュメンタリーを作っている人はウソつきが多いような気がしますね。羨ましいですよ、あんなにウソつけられて。こちらはとてもウソつけられません、しょせんはフィクションですから。まぁウソつきというのは冗談ですが、どこまでフィクションとして語れるか、現実の素材を元にどこまでフィクションが構築できるか、ということを考えてらっしゃるような気がします。

香港国際映画祭について
-日本では監督同士が会えそうでまず会えないのですが、海外の映画祭ではお会いする機会が多いですね。少し前に撮った「トウキョウソナタ」は日本で作った映画ですが、制作会社は香港をメインとするオランダの会社でした。香港で出会ったオランダ人のプロデューサーから誘われたのがきっかけで撮ったのがこの「トウキョウソナタ」です。香港国際映画祭での出会いがなければ、恐らく「トウキョウソナタ」という映画は無かったかもしれません。映画祭でに出会いはとても大きいです。昔は若い新人の映画監督はそう簡単に海外の映画祭には行けなかったですけど、今はデジタルで簡単に見せられる、フィルムと違ってデジタル映像だと字幕などもすぐ入れられるということで、日本の新進映画監督が海外の映画祭にどんどん出ていますよね。若い才能のある日本人監督は日本でよりむしろ海外で知られている事がありますね。日本で無名か有名か、ベテランか若いか関係なく、「これは才能がある」と思ったら海外の映画祭の方が日本国内よりもすぐ目をつけます。

『クリーピー 偽りの隣人』をこぼれ話などお聞かせいただければと思います。
―自分の仕事に集中して他の事に気を配る余裕がないので、周りで起こっているこぼれ話はよくわからないのが正直なとこなんですけど、まぁこぼれ話とは言えないかもしれませんが、映画はそれなりに陰惨で結構残酷な人間同士がどこか争う凄惨な物語の内容なのですが、そういう撮影現場ほど、まぁ俳優たちはいつも明るく仲良かったですね。竹内さんも香川さんもペラペラ喋っていてね。こんな凄惨なドラマを撮っているとはよもや思えない朗らかな現場で、俳優ってわりと色んな人があるんですけど、今回集まってくださった俳優はみんなバランスを取る方でしたね。ドラマがこんな残酷な内容なので、休み時間は楽しくおしゃべりしましょうよ、休み時間まで暗い顔をしていたら本当につらいじゃないって感じでした。僕もそういう現場が好きなんですけど、「これから殺人シーンがあるけど大丈夫かな?」と僕も不安になるようないつになく楽しい明るい現場でしたね。

黒沢監督がお感じになる香港の印象や何か香港での体験などをお聞かせ願いませんでしょうか?
-今回香港に来るのは5回目位で香港は大好きなので毎回楽しいのですが、来るたびに変わっている所は変わっている、全然変わらない所は変わらないですね。世界の大都市というのは大体そういう傾向はありますが、香港はそれが最も極端だな、と感じますね。高層ビルは来るたびにどんどん建っている一方、2階建のトラムやスターフェリーは全然変わらないですよね。変わっていく部分と変わらない部分が同時にある、というのが香港の楽しみですよね。

hiro
クラオタ歴30数年。 香港在住。 クラシック音楽や映画などについて、日本語紙に時々寄稿しています。